guest room












昔、もうずっと昔だからはっきりとは覚えていないけれど、僕と兄さんとウィンリィで海へいった。この大陸はあまりにも広いものだから、海はとてもとても遠くで、初めて行った僕はとても嬉しかったのを覚えている。それはよく晴れた日だった。日光浴をするというウィンリィを置いて、僕と兄さんは遠浅に出た。波打ち際で足を浸した。兄さんが冷たい、と言った。僕にはよくわからなかったけれど。

兄さんが海と僕を交互に見比べながら、しきりと首を捻っていた。それで僕は兄さんが海に入りたいのだと気付いた。いいよ、僕は言った。僕のことは気にしなくていいから。兄さんは何度もごめん、と謝りながら上着を脱いだ。そうして、海の中へと入っていった。

そのとき、大きな波が押し寄せ、兄さんの姿を隠した。僕は驚いて水のなかへと歩み寄った。兄さんはすぐに現れた。そうして海のなかにいる僕に向かって、ひとこと「錆びるぞ」と言った。

その言葉がなんだか可笑しかった。人に対して「錆びる」って。兄さん酷いや、と言いかけて僕は自分の躯を見た。鋼鉄の鎧。それこそがぼくだった。僕は居心悪く笑い、波打ち際から身を離した。

「ウィンリィと日光浴をして来いよ」

兄さんがそっぽを向いて言った。そうして、沖へと泳いでいった。僕はわかる。兄さんは、こんな姿になった僕を見ていたくなかったんだ。僕はウィンリィの元へと戻った。

「早かったわね」

ウィンリィが言った。ウィンリィはツーピースの水着に着替え、サマーチェアに寝そべっていた。僕を見て、脚を組み替えた。その仕草を見て僕はとても緊張した。どうしてかはわからないけれど。

「エドと遊んで来なかったの?」

遊んで来たよ、と僕は言った。兄さんは遠泳しているんだ。僕はそんなに泳ぎたくなかったから、戻って来た。ウィンリィはそう、と言った。そうしてまた脚を組み替えた。僕はその姿から目を離せなかった。

ウィンリィと僕とは喋ることがあまりなかった。僕はウィンリィが好きだった。利発そうな瞳、やさしい微笑み。誰だってウィンリィを嫌いになることなんかできないだろう。兄さんはウィンリィと長いこと話し込んでいることがあった。ウィンリィと離れてからは、毎日のように手紙を書いていた。僕は、ウィンリィにとって兄さんは特別なのだろうと思っていたから、兄さんにこの不思議な胸のうちを聞いてみたかった。ウィンリィと親しい兄さんなら、きっと分かってくれるだろう。

「ビーチボールがあるわ。あげる。エドと一緒に楽しんでいらっしゃい」

ウィンリィがビーチボールをくれた。本当はウィンリィと離れたくなかったけれど、僕はボールを抱えて彼女にまた後でね、と言った。ウィンリィが僕に向かって手を振ってくれた。

兄さんを探して波打ち際を歩いた。兄さんは遠くまで泳いで行ってしまったのだろう。姿が見えなかった。遠くに防波堤が見えた。あそこなら兄さんを探し出せるだろう。僕は防波堤に向かった。

防波堤の先端に立っても、兄さんの姿は見えなかった。波が魚の鱗のように、ぎらぎらと反射していた。きっとそのせいで見つからないのだろう。僕は諦めて引き返すことにした。

そのとき、一陣の風が吹いて、片手に抱えていたビーチボールを空に舞い上げた。ぼくはとっさに捕まえようとした。大切なウィンリィに貰ったものだから。ぼくの手は空中をこぎ、バランスを失い、そうしてぼくは海のなかへと落ちていった。





――……ル……アル……

ぼくを呼ぶ声がする。ぼくははじめ、それがおかあさんの声だと思った。ぼくは海の藻屑と消えて、魂だけおかあさんの元に行ってしまったんだ。けれどそれが勘違いだということにすぐ気付いた。この声は兄さんだ。兄さんの声を聞き間違える筈がない。

目をあけると、目の前に兄さんの泣き腫らしたがあった。ぼくは波打ち際に引っ張りあげられていた。鎧の隙間から水がざあざあと流れ、ぼくの躯にはたくさんの海草がからまっていた。まるで廃品回収の不要品みたいだった。

「アル、ごめん。アル。俺がひとりで海に入ってしまったから……」

兄さんの瞳はウサギのように真っ赤だった。随分と泣いていたことだろう。ぼくは兄さんを慰めるために口を開いた。

「大丈夫だよ。ちょっと沈んじゃったみたいだけれど、ぼくは死なないから。きっと、お魚さんの棲家になっていたよ」

そう言ってくすりと笑った。我ながらよくできた冗談だと思った。海のなかで意識がなかったことが残念だった。海の世界は、きっと綺麗な景色だったろう。けれど兄さんはそれを聞いてぼくの頬を打った。鈍い金属音がした。

「馬鹿! お前がいなくなったら俺……俺……」

ぼくは重い片腕をあげて、兄さんの頬に触れた。兄さんは寒さのためか青白い顔をしていた。ぼくの手で暖められてあげられれば、と思った。だけどそれは不可能だ。

「兄さんが助けに来てくれると信じていたから、大丈夫だよ」
「アル……」

兄さんの顔が近付いて、ぼくの口にキスをした。思い出した、幼い頃兄さんとぼくは辛いことや悲しいことがあるとこうして慰めあっていた。兄さんはぼくに覆い被さり、感触を確かめるかのように強く抱き締めた。ぼくもそっと兄さんを抱いた。


――そうして、長いあいだ抱き合っていた。





先に体を放したのは兄さんのほうだった。兄さんは照れたように笑うと、くしゅんとひとつくしゃみをした。

「帰ろう、アル。ウィンリィが待っている」

そうだ、ウィンリィが待っている。兄さんに彼女のことを聞こうと思っていたんだ。ぼくはゆっくりと躯を起こした。もう海水は入っていなかった。

「早く体を洗わないと錆びちゃうね」
「馬鹿、あれは冗談だよ」

遠くでウィンリィが手を振っている。それを見てぼくたちは彼女のほうへと駆け出していった。
























04/10/3 蔡家彩鼓さん from Depas05mg



04.10.3 彩鼓さん家のリニューアル時に頂いてきました。せめて海のアルの話だけでも連れて帰らせてもらおうとお願いしたのですがその後彩鼓さん家のアネックス頁ができたのでめでたしめでたし。〜前回までのあらすじ。
ほんと大好きなお話です。