あかいくちびる























報告書を机に放り出した手をひっこめると、視線が一緒についてきた。

「なんだよ」

なに見てんだよ、と、ちんぴらが喧嘩を売るように返して、エドは視線のはりついている左手を身体の後ろへ隠した。色の白い手が、執務机に広げられた資料の上で、無言で掌を見せた。

エドは一瞬、躊躇した。そして、その躊躇いが一瞬であることにむかついた。結局は相手の言う事を聞いてしまう自分に、振り回される自分に。

思い切り眉を寄せて、エドは白い手袋に覆われた左手をのろのろと差し出した。人差し指の付け根に薄茶色く染みがある。

早く洗わないと染みになると、弟がうるさく言っていたのを思い出す。言われた通りにしなかったので、こんな所で難癖をつけられる羽目になった。

「手をどうした?」

と、心配する様子など欠片もなく、ただ仕事に飽きているだけの声が尋ね、てのひらに乗せられた左手から、手袋を引き抜いた。

子供らしい軟らかさとは無縁な指の、付け根近くの手の甲に、赤黒くかさぶたを作る大きな傷があった。縫合は要らなかったが傷は深く、再生した皮膚はしばらく痕になって残るだろう。

旅の途中、通りすがりの街で揉め事に巻き込まれて負った傷だった。胡散臭い探し物をしているせいで、危険な目にあうのにももう慣れた。

「どっかの町で通り魔捕まえた時にやった怪我だよ。もう治ってる」

検分するように眺める目に、居心地が悪くなった。まだ治りきらない頃に、傷から滲んだ血が手袋についてしまった。不精をしてすぐに洗わずに放っておいたら、染みがとれなくなった、それだけだ。
けれど、ただそれだけのことに気付いてもらえたのは、気にかけてもらえているからな気がして。
そんな風に錯覚する自分に、むかむかする。

伏せた視線のせいで、意外と長い睫が白い肌に影を作っていた。肌の白さに、唇の赤味がやけに目につく。多分、荒れているのだろう。薄い唇の皮が荒れてさらに薄くなって、血流の増減を色鮮やかに浮かび上がらせている。その鮮明な赤は血の色だ。

つかまれている手の内側が、汗をかいている気がした。

「宝探しに正義の味方か。忙しいな」

さして興味を持っているでもない声がそう言い、伏せた睫の下の黒い目がつまらなそうにエドの手を見ている。暇つぶしになるネタじゃなくって、残念だったな。さっさと離せ。

「軍の狗のイメージアップに協力してやったんだ、ありがたく思えよ」

「うむ、ありがたく思う。今後もその調子で努めたまえ」

礼を言っているとは思えない偉そうな態度に、軽くこめかみに血管が浮き出る。エドは、口の端を片方だけ上げて心の平静を保とうとした。けれど一瞬で、努力は無駄になった。

「それでは、これはどこぞの通り魔が君に残した傷というわけだな」

言葉に続いた行動に、エドの視線は固まった。大佐が顔を俯け、わずかに開いた唇がエドの手の甲に近づくのが見えた。肌よりも白い歯が、赤い唇の下からのぞいた。

がり、と。聞こえた気がした音は、自分の声にかきけされた。

「っってーっ!!」

反射的にひっこめようとした左手は、白い手にしっかりと掴まれてびくりと震えただけだった。剥きだしにされた傷口をひたすように滲み出した血は、ほとんどはがれかけたかざぶたを伝って手の甲を汚した。

「なにすんだよっ! クソ大佐!!」

睨みつける視線の先で、大佐は顔を上げ、唇の両端を吊り上げた。細い目が緩み、表情だけで笑う。

「君は、どこの馬の骨とも知れん通り魔が残した傷と、愛する者の残した傷と、どちらがいいと思うかね」

「はあ?」

エドはもともと気にしていない階級をさらに無視して、思い切り聞き返した。何言ってんだ、こいつ、と。顔に書いて見返すエドに、大佐はにこやかに微笑んだ。

「私ならば後者を選ぶな。鋼の」

「つーか、勝手に二択にしてんじゃねーよ!」

めまぐるしいスピードで止まりかけた思考力を回復して、エドは顔をしかめた。本当に本当に本当にむかつく。

「ほとんど治ってたのに!」

「なんだ? 鋼のは見ず知らずのむさい犯罪者に傷を残されたいのか? 変態だな」

「てめーのことだろ!」

「私はむさくもないし犯罪者でもないし、見ず知らずというよりはいろいろと知っている方だと思うが?」

心外だと言うように口を閉ざして、大佐は眉を寄せた。エドは反論に開いた口を、何も言わずに閉じた。そうと分からないほどに下がった肩は、椅子に座ってエドの手をにぎったまま見上げる相手にはわかっている。

「さあ、どっちがいい? 鋼の?」

うきうきとした声が、回答を迫る。答えのわかっている目が細く笑い、機嫌よくエドを見上げている。頭がおかしいとしか思えない。ただの暇つぶしにこんなことするか、フツー。

呆れてものも言えないという心境を、十四も年の離れたこの大人を前にすると、エドは度々実感する。手を掴まれたまま黙っているエドに、見上げる顔が答えを促すように小さく首をかしげた。三十目前の男がそんな仕草するな。言っとくけど、ちっとも可愛くないからな、それ。

繋がれた手を、無理やり引き剥がすことは容易だった。怒って、わめいて、暇に厭かせて人をからかって笑う声を背に執務室のドアを閉めて出てゆくことは。
けれどそうせず、エドは答えた。

そんな二択に答える義務なんか、少しもなかったのに。

了解を口の端に浮かべた笑みに変えて、口付けるように白い歯が傷口の中に沈む。痛みは、痺れるように鈍かった。本当に、頭がおかしいとしか思えない。そんなことをする、この大人は。されるがままの、自分は。



痛みは、身体の奥深くで転換される。見下ろす先には、血に濡れて赤い唇。































04.2.16
うさぎを狩るのにも全力を尽くす獅子のように本気で冗談の大佐。