エドロイ 10 TEXT
血痕
















控えめに呼ぶ小さな声に気付いたのは、ハボックだった。

半分だけ顔を向けて振り返ると、ベンチソファに座っているというよりはずり落ちかけている赤いコートの子供を、隣に座っているというよりは置かれている鎧が、「兄さん、兄さん」と小さな声で呼びながら片方だけの手で揺さぶっていた。

子供が軍の司令部に出入りすることにも、もうすっかり違和感を覚えなくなっていたが、傷の男の捜索と今後の対策とを検討する大人たちの輪から一人離れて眠ってしまっている姿には、やはりまだ子供なのだとそう思う。仮眠室に行くように声をかけようと口を開きかけ、慌しく開いたドアにハボックは意識を戻した。

雨に濡れた軍服のまま、フュリー曹長が敬礼をした。

「第二小隊からの報告です。下水道の通路に血痕らしき付着物が発見されました!」

ざわ、と。空気が揺れるように控えめなざわめきが室内に起こり、ハボックは市街地図をはさんだ向い側に、司令官の顔色を盗み見た。

思い切り眉間に皺を寄せた顔で、大佐は中尉から差し出された下水路の地図を市街図の隣に並べた。

「第二小隊は追跡を続行していないだろうな?」

「はい。大佐の指示に従い、痕跡を発見した現場で待機しています」

フュリーが報告した発見現場の位置に、白い手が赤いペンで印をつけた。傷の男を取り逃がした大通りから北東に十キロの位置だった。国家錬金術師が三人に、三個小隊を動員して、連続殺人犯に負わせることができた傷は頭部へのかすり傷のみ。こめかみに近い位置の銃創からの出血が発見できたのは、幸運と言えた。

「中尉、南西に配備した憲兵を北東部の市街警備に回してくれ。それから、傷の男の特徴と、発見時には速やかに司令部に報告し、いっさいの手出しはせんようにとの周知徹底を。第二小隊は指示があるまで、引き続き現場待機」

「了解しました」

上部半分を赤い線で囲まれた市街地図を受け取り、中尉は伝令のフュリーを伴って退出した。部下を見送った視線を手もとに戻すと、大佐はさらにしかめ面で水路の地図を睨んだ。

「一時間半で十キロってのは、逃げ足の早い方ですかね?」

「ちんたら逃げとらんで、さっさと管轄外まで出て行ってほしいものだ」

忌々し気に答える司令官に、ハボックとともに地図を囲んだファルマンとブレダがそれぞれの表情で同じ心境を現した。気心が知れているとはいえ、中央本部所属の中佐と少佐が退席した後でよかったと思うのは、軍人特有の身内根性だろうか。

ハボックは煙草を取り出し、口に咥えた。とりあえず、新しい情報が入ってくるまでは、一旦お開きになるだろう。煙草の箱を軍服のポケットに戻しながら、ハボックはベンチに座ったまま寝ている子供のことを思い出した。

「しかし、血痕が見つかったのは僥倖だったな。これで無駄に市街警備を増員せずにすむ」

地図を睨んだまま呟く大佐越しに、ハボックはひょいと顔を傾けて向こう側を覗きこんだ。ベンチに並んで座る弟が、根気よく兄の腕をつついている。すっかり熟睡してしまっているようだと、そう思った矢先に、釣り上がった目がぱっちりと開かれた。

「結婚すんの? 大佐」

「せんよ」

寝起きの気配の欠片もない声が尋ねるのに、大佐は市街地図から顔を上げぬまま即答した。

「そうか」

「まさか、君までヒューズのようなことを言うつもりかね、鋼の」

一瞬遅れて言葉の内容を理解したように、大佐は心底嫌そうな表情を浮かべた。けれど、その顔が振り返った時には、少年は再び眠りについていた。
続けかけた文句を飲み込むように口を閉ざして、怪訝そうに眉をひそめた大佐は、また地図に向き直った。


目を閉じる瞬間の幼い顔が、満足そうな笑み浮かべたのを見ていたのは、ハボックだけだった。

























04.2.26
けっこん。