蓮花






























「中尉」

雨音を縫って聞こえてきた声に、リザはホルスターに銃を収めながら振り返った。雨の中に濡れて立つ相手のもとへ、無言で歩み寄る。命令を待つ中尉に視線を向けぬまま、大佐は口を開いた。

「上着を貸してやってくれないか」

抜けた主語は、大佐の視線の先にあった。路地裏で、片腕のない少年が壊れた鎧の傍らにうずくまっている。

数分前に、弟を庇って命を投げ出そうとした少年は、その弟に散々怒られて、どうやら許してもらえたようだった。

「私のコートでは嫌だろうからな」

リザは兄弟から傍らの相手へと視線を戻した。厳しい表情を浮かべていた横顔からは、緊張が消えていた。かわりに口の端が静かに上がり、かすかに笑っているように見えた。

上官の言うそれが、体格を気にする少年がぶかぶかのコートを嫌がることを指しているのか、結果として自分の命も弟も大佐に救われたことを言っているのか、リザは図りかねた。

わざわざ自分を名指ししたということは、前者だろうかと思いながら、リザは目礼で了解を伝えた。
踵の向きを変えて、少年たちのもとへと足を踏み出そうとして、だが、呼び止めるでもなく呟かれた言葉に、リザは視線を戻した。

「蓮の花のようだな」

「……蓮ですか?」

「泥の中から生まれいで、泥の中に咲きながら、泥に染まらずに美しい花だ」

問いに、大佐はよどみなく答えた。視線は変わらず、雨の中の兄弟に向けられていた。今、思ったことではないのだろうと、リザは大佐の横顔を見つめながら思った。

大罪を犯し、その罰を受け、両足を絶望の泥の中に捕らわれながらも、失ったものを取り戻すために生きることを選んだ兄弟の姿が、この人にはそんな風に見えるのだろうか。いつも、そんな風に見ていたのだろうか。

まるで、遠い憧憬と手の届き得ない痛みを覚えているような、そんな眼差しで。

暗く汚れた場所から、眩しく美しいものを眺めるような、そんな顔で。


「大佐も充分お美しいです」


断言する声のゆるぎない響きに、リザは自分でも少し驚いた。けれど、もっと驚いたらしい相手は、瞬きしながらリザを見下ろした。夜空の深遠のように真っ黒な目が、せわしなく瞬きを繰り返して自分を見つめるのに、リザは小さく礼を返して、俯く口元で笑った。

「エルリック兄弟を保護してきます」














































「中尉!」

忙しなく人が行き交い、殺気立つような喧騒の中、呼び止められて振り返った先にはこの場に似つかわしくない少年が立っていた。

少年は丸めるようにたたんだ上着を片腕で胸に抱えていた。

「これ……」

照れたように言葉を途切れさせて、少年は視線を下げた。腕の中で持ち直すようにしてから、生身の手が軍服を差し出す。

「ありがと。借り、作っちまったな」

「気にしなくていいわ」

服を借りた礼と、軍に借りを作ったと言うその両方に、軍服を受け取りながら、答えて返した。気にしなくていいとは少しも思っていないらしい、どこか不服そうな少年の顔を見下ろして、リザは上司の言葉を思い出した。

サイズの合わないコート。
作りたくない、借り。

「大佐……」

思い浮かべたそれに呼応するように、その名が少年の口からこぼれて、リザは思わず低い位置にある顔を見返した。

眉間に皺を寄せて、視線を廊下の隅へと逸らしながら、少年は言いづらそうに言葉を続けた。

「なんか、言ってた?」

けれど、聞きたくて仕方がないように。

怪我の手当てもあって、少年たちは一足早く市街を後にしていた。当然、副官であるリザは、上官と行動をともにしていた。

大佐が何か言っていなかったか気になる、その理由を、リザは知っていた。

少年が、誰のものでもなくその人のコートだからこそ、自分には大きすぎることを気にするのだと。借りを作る相手が、他の誰でもなくその人だから……。

「この上着」

リザはたたまれた軍服の上にそっと片手を乗せた。手のひらに、湿った冷たい感触が伝わってきた。あの人は、もう濡れたコートを脱いだだろうか。

少年が視線を上げるのが、見なくてもわかった。

「大佐が、貴方に貸してやってほしいと言ったのよ」

少年が、小さな体の全身でリザの言葉に神経を傾けているのが、わかった。自分も、あの人の言葉を誰かから伝え聞くのならばそうするだろう。

「ご自分のコートでは、貴方が嫌がるだろうとそう言って」

好意でもなく、本意でもなく、リザは少年に事実を伝えた。手元から視線を上げると、少年は呆然とするように表情を失い、つりあがった目を何度か瞬いた。

そして、嬉しさとそれ以外の色んな感情を、少年は一瞬で歯の奥にかみ殺した。

少年は、執務室へと向かうだろう。けれど、リザにはそれを止めることはできなかった。あの人の言葉を、伝えないでいることができなかったように。

この小さな恋敵の邪魔を本気でするようなことは、自尊心が許さなかった。



こんな小さな子供に、本気で嫉妬するなんてことは。



雨に打たれた横顔とその眼差しが、一瞬で脳裏に浮かんで消える。「礼、言ってくる」と憮然とした声で言って立ち去る背中を、リザは黙って見送った。


















腕の中の冷たく濡れた軍服が、少しだけ重かった。


























04.03.04
中尉 VS エドワード少年。