やさしい嘘 |
「ウィンリィ」 何か思い出したような声に名前を呼ばれて、ウィンリィは振り返った。 アルの両手には、停車駅で買い込んできた食料の入った紙袋が抱えられている。ウィンリィの手には、座席で荷物番をしているエドワードの財布だけ。なりは大きいけど1歳年下の幼馴染みは、14歳の年齢ですでに女の子への礼儀が身についていた。もともとの性格の優しさのせいだろうとは思うが、当然のように荷物を持ってくれるそれは、わかっていても気分がいい。 なんか、大事にしてもらってる感じがするじゃない? 上機嫌のまま、ウィンリィは「なあに?」と訊ねた。 「うん、あのね、アップルパイの作り方、ぼくにも教えてほしいんだけど」 「後で、教えてくれる?」と、とても控えめな様子で、可愛い声にそんなお願いをされては、ウィンリィに否やはなかった。 「いいわよ。エドに作ってあげるの?」 食べきれないといいつつ完食しきったエドと、ここの兄弟仲の良さと、当面食事のできないアルの身体のことを考えて、ウィンリィは快諾の言葉に何気なく付け足した。 けれど、アルは「ううん」と即座に否定した。 一瞬の間は、思いがけない返事に応える言葉の用意が間に合わなかったのと、さらなる疑問に頭の中を占められたせいだった。 小さな頃から賢く、察しのよかった幼馴染みの少年は、ウィンリィの沈黙に気づいて言葉を続けた。 「あ……、あのね、アップルパイとミルクティーって、合うかなと、思って」 ひどく慌てた様子の声が、ウィンリィの問いへの答えとは、少しずれたところから言い訳するようにそう言った。 「好みによるけど、あうんじゃない? 甘いものが好きなら」 ウィンリィの好みには甘すぎるが、シナモンの利いたアップルパイはロイヤル・ミルクティーに合わないこともないだろう。自信のなさそうな声が、「ほんとに?」と訊ねるのに、ウィンリィはつい励ましたいような気持ちになった。 「ほんとに。美味しいミルクティーの淹れかたも教えてあげよっか?」 「ううん。お茶はいいんだ」 荷物を抱えたアルが小さくふるふると首を振った。その様子に、ウィンリィはなんだかわかってしまった。幼い頃の記憶が一瞬で目の前の大きな鎧の姿に重なる。小さな頃から、この弟はなんというか惚れっぽかった。 一緒に遊ぶ近所の子や、クラスの子、村の花屋の売り子さん。それに、ウィンリィも。幼い恋心は、好意をそのまま純化してしまう錯覚みたいなものだったが、それでもいつも小さなアルには「好きな人」がいた。 旅から旅への生活とはいえ、アルに好きな人がいるのは少しもおかしくなかった。 それが、もう自分ではないことはちょっと寂しい気もするけれど、あの弟べったり兄ではないことはちょっといい気味な気もした。かなりした。 「お茶の約束する相手なんているんだー、アルってば」 思わずニヤニヤ笑ってしまいながら、ウィンリィはアルの鎧の腕をひじでつっついた。その意味するところをちゃんと理解して、アルは慌てた様子で首を振った。 「違うってば、ウィンリィ! そんなんじゃないってば」 「ウィンリィ、だいすき」と、とろけるような笑顔でそう言ってひっついてきてくれた子供が、そんな話題に照れて必死に隠そうとしたりするなんて。 なんだか、自分の弟の成長を見守るみたいな、あったかいようで寂しい気分だった。実際、ウィンリィにとってはアルは弟も同然なのだけれど。おおっぴらにそれをアピールできないのは、弟バカのバカ兄がうるさいからだった。 「本当に……そんなんじゃないんだ」 ふいに声のトーンが落ちて、ウィンリィは笑みを戻した。「大人の人の約束は、ほんとのことじゃないってわかってるもの」と、小さく呟くように、アルは続けた。 「でも、そうなったらいいなって思って、そしたらお土産にアップルパイを持っていきたいなって、そう思って……」 だから、作らないかもしれないんだけど、教えてくれる? 小さく首をかしげて、少しだけ悲しそうな声が無理をして明るい口調を作った。 「そんなの……、いいに決まってるじゃない!」 列車の出発を告げるベルを聞きながら、ウィンリィは弟の恋を応援するような気持ちで、財布を握り締めて、そう答えた。 「あ、そうだ!」 時計を盗まれたり弟子入りを希望して断られたり出産に立ち会ったり。 すごく慌しい1日の最後に、ウィンリィはそれを思い出した。 「なんだよ?」 と、居間を間借りした寝床に潜り込み、眠る準備万端のエドがうるさそうにウィンリィを見上げた。2つあるソファの1つには、すでに寝息をたてて眠る少女の姿があった。残る1つはウィンリィ、エドは床、アルは家主を手伝って、嵐で剥がれてしまった屋根の補修をしに行ってまだ戻ってきていない。好都合だ。 「ねえ、アルってば好きな人がいるみたいよ」 何を言っているんだというように、つりあがった目を瞬く相手に、ウィンリィは大きな目を半分閉じるようにして返した。 「言っとくけど、あんたのことじゃないわよ」 「俺じゃなかったら他に誰がいるんだよ」 自信満々というならまだ可愛げがあるが、ゆるぎない事実を告げるように言われるとなんだかむかつくということを、ウィンリィは人生において初めて理解した。 「アルがあんたと結婚するって言ったのは小っちゃい頃の話だってわかってる?」 「言ったことには変わりない」 頑迷。という言葉が、頭の中に浮かんで、ウィンリィはその件に関して、毛布に包まって睨み上げてくる相手と論じあうのをやめた。 「相手は大人の女の人みたいよ」 「大人の女ー? あいつ、惚れっぽいからなあ。錯覚ってゆーか思い込みってゆーか」 エドは生身の手で、頭をがしがしと掻いた。まったくしょうがねえなあ、と表情が語っている。 弟のそういう性質は、兄も理解しているらしい。だが、都合よく、自分もその錯覚の一例だったのだということは考えないらしい。 ちょっと意地悪な気持ちになって、ウィンリィは口を開いた。 「なんか、デートの約束してるみたいよー。その人と」 「なんだよ、それ? 聞いてねーぞ!」 「あっそー。まあ、アルも年頃だもんねえ、兄貴に隠し事の一つや二つあっても普通よねー。アルって女の子に優しいし、けっこううまくいっちゃうかもねー。お、や、す、みー」 一方的に言い切って、ウィンリィは毛布を口元までひっぱりあげた。弟が隠し事をしているという事実とその内容に呆然とする兄は、起き上がったまま両手を床についてがっくりと肩を落としていた。 だが、この兄に弟を問い詰めることもできないだろうから、ウィンリィがバラしてしまってもアルに迷惑はかからないだろう。 すっかり眠る所ではなくなっているエドを残して、ウィンリィはちょっと満足した気分で目を閉じた。 「大佐?」 灯りのついている給湯室を覗き込んだ先に、ハボックは上司の後姿を見つけた。 深夜に近い時間に仮眠をとるわけでもなく何をやっているのかと、そう尋ねかけて、甘い香りに気づいた。 「ミルクティーっすか?」 振り返った相手は答えず、眉間に皺を寄せる顔でハボックを見上げた。手元のコンロでは、ミルクパンが火にかけられて、中身が茶色くこげついて輪を作っていた。シンクの横には、紅茶の缶と牛乳と、砂糖のポット。 「存外むずかしいな」 「はあ」 どうやら失敗したらしい。 「しかし、なんでまたご自分で?」 この上司の行動は、理由を聞いても意味のわからない場合か、ただの思いつきなだけである場合かのどちらかだったが、会話の礼儀のようなものなので、ハボックはとりあえず尋ねた。 大佐は真面目な顔をすればするほど不真面目に見える表情で、「備えあれば憂いなしだ」と応えた。ほらな、わけわかんねえ。 「はあ」 と、わかったようなわかってないような相槌を返すと、大佐はつまらないことで中断させられたとばかりにさっさと向き直ってミルクパンの中身をシンクに流した。ああ、もったいねえな。 「どなたかに淹れてもらった方がいいんじゃないっすか?」 なんなら自分が淹れましょうか、と申し出ると、大佐は水道の水でミルクパンをすすぎながら、ふいに口の端を上げた。 「それでは約束が違ってしまう」 何か楽しいことを思い出したように、俯く横顔が笑って、すぐに表情を変えた。 「もっとも、いつになるかわからない約束など、向こうは忘れてしまうかもしれないがな」 ゆっくりと目を細めて笑うその顔は、女性に向けるたらし笑いの笑顔だった。脳裏に浮かんでいるらしい約束の相手が女性であることは、間違いないようだ。 女性を部屋に誘う口実に、美味しいミルクティーを淹れる約束でもしたというところか。 だとしたらちょっとしたニュースだな、とハボックは思った。東方司令部に配属されてこの数年、女性のうわさの絶えない上司ではあったが、その自室に誰かが招かれたという話は聞いたことがなかった。 そんなことを考えていた部下の頭の中を見透かしたように、大佐はちらりと視線を上げた。 「ハボック少尉。ここで見たことは他言無用だぞ。もし口を滑らせたら」 「消し炭ですかい?」 「減俸3ヶ月だ」 「給湯室には誰もおりませんでした」 ハボックは背筋を正して敬礼した。 「よろしい」と重々しく答えてミルクパンに真剣な様子で牛乳を注ぐ上司を残し、ハボックは深夜の給湯室を後にした。 |
04.03.06 「やさしい人」の後日話です。大佐は炊事できない人なのがいいなと思います。うそつき大佐。 |