エドロイ 10 TEXT |
コート |
道を歩いていたら水をかけられた。 経緯を辿るとこうだった。東方司令部ロイ・マスタング大佐は午前中なので仕事をする気にならなかった。デスクワークをサボる手はないかと考えた大佐は、司令室の掃除をすることにした。例によって大佐は窓にバケツの水をぶっかけようとし、運悪く居合わせてしまったハボック少尉はすでに投球モーションに入っているところを制止しても慣性の法則に従いバケツの水が室内に撒き散らされると判断し、窓を開けることで上司の暴挙に対処した。 結果、勢い良く水は窓の外へと撒かれ、ちょうど通りかかったエドワードは頭から水をかぶることになった。 「うぇっくしょんっ!!」 「いや、取りにいかせるから構わん。では、頼む」 赤いコートを手にした下士官が一礼して退室すると、執務室の中に一瞬の沈黙が降りた。書類入れには相変わらず白い紙の束が積み重ねられ、部屋の持ち主が仕事をサボっていたことが容易に知れた。 エドは散らかったデスクの上から、窓へと視線を移した。陽光は雲に遮られて薄暗く、水を頭からかぶった上に腕を剥き出しにしている身に寒さを覚える。エドは思わず身震し、両腕を自分の手で掴んで肩をすくめた。 「とりあえず、これでも着ていたまえ」 振り返ると、白い右手が黒いコートを差し出していた。左手で、クローゼットの扉を閉めてから、大佐はエドに向き直った。 「早く取りたまえ」 差し出されたコートを思いっきりの渋面で睨むエドに、手が疲れるとでも言うようにこちらも顔をしかめた大佐が促した。 「ぶぇっくしゅんっ!!」 と、盛大なくしゃみをしておきながら、エドはそれでもコートに手を伸ばさなかった。だって、あれは。 「いいかね、鋼の。君が世によく言う通説を信じてそのような態度を取っているのだとしたら……」 「誰がバカだ!!」 バカは風邪を引かない、と。大佐の湾曲な表現を即座に理解して、エドは怒鳴るように応えた。頭の回転の速さを好ましく思うように、ほんの少しだけ黒い目が表情を変える。笑うのに似たそんなかすかな表情の変化が好きだ、なんて、考えたくもない。 エドは大佐の手からコートを奪い取り、半ば自棄気味になって袖を通した。鏡に映して見てみるまでもない。 指先は袖口に完全に隠れ、コートのすそはやわらかい絨毯の上でゆるいドレープを作っていた。 悔しいのか腹が立つのか、自分でもわからない。エドは、嘲笑って嫌味の一言も言うに決まっている相手を、開き直りとヤケクソで見返した。なんとでも言いやがれこんちくしょう! エドが勢いこんで見上げた先で、大佐は目を瞬いて口を開いた。けれど出てきたのは、からかいの言葉でも嫌味でもなかった。 「真っ黒だな」 と、そう言って。服もブーツもコートも黒いエドの姿に、大佐は目を細めた。ちょっと面白いものを見たような、そんな感じに、他意もなく笑った。 「赤の方が似合う」と、笑みの名残を浮かべる目が、すれ違いながらエドを見下ろした。外側へとかすかに首をかしげて、まるで誘惑するような柔らかい声と姿で。 去ってゆく白い手を掴もうとして、伸ばした先でコートの袖に隠れた自らの手に、エドは指先をてのひらに握り込んだ。 窓辺の執務机について、書類を広げ始めた大佐を視界の隅に収めて目を瞑り、エドはソファに倒れこむように身体を投げ出した。 頬に、皮の感触が冷たく当たる。 身を包んであまりあるコートは、嫌になるほどあたたかい。 「鋼の、寝ても構わんがコートによだれをたらすなよ」 「っらさねえよっ……!」 机に向かって俯くすかした顔が、きっとエドの見ていないところで笑っているに違いないのが。 むかつくのか嬉しいのか、自分でもわからない。 のが。 むかつく。 |
04.3.25 コート。 |