幻肢痛






















情報集めに立ち寄ったバーを出ると、雨が降っていた。




舌打ちして、エドはローブの留め金を外した。濡れて帰ることなど少しも厭わなかったが、宿で留守番をしている弟が、頭から雨をかぶった姿を見たら、うるさく言うに違いなかった。

傘を買えばよかったのにとか、こんな天気じゃ乾かないよとか、風邪でも引いたらどうするの、とか。

そんな風にうるさく言われることは、嫌いではなかった。
エドがだらしなくすれば、小言を言いながら、弟はあれこれ世話をやく。しっかりもので口うるさい奥さんみたいに。

弟の小言の多さは、わざとしむける兄のせいもあった。

エドは赤いローブを両手に持って、頭の上にかかげた。

小言を聞きたいなら濡れて帰ればよかったが、風邪を引いたらと、弟を心配させたくはなかった。

自分が生身の身体を失って、熱さ寒さの影響を受けなくなった分、弟はエドの体調をしょっちゅう気にかけている。健康な人間が、病気がちな人間を過剰に心配してしまうのに似ていた。
それと、多分、母さんだ。

母親を病で失っているから、エドが病気や怪我をするのが怖いのかもしれない。

エドは鋼色の空から降ってくる、雨を見上げた。
見知らぬ街の宿屋の小さな部屋の中で、多分同じ雨を見ている弟の姿が脳裏に浮かんだ。

雨の中に踏み出そうとした足は、しかし、1歩も前に行かずに止まった。

エドは振り返った。

声をかけられたように思ったのは、うめき声だったようだ。バーの庇で雨を避けてドアの横にうずくまっている男から、また低い声が聞こえた。

酔っ払いかと判断するには、身なりが汚れすぎていて、直感的に物乞いなのだとエドは理解した。ずいぶんと、年をとっているようだ。

一瞬のためらいを押し込めて、エドは眉をひそめただけで立ち去ろうとした。

だが、やはり足は動かなかった。背ける視界のすみに、男の足が映ったからだった。
ボロボロのマントの下に、足は1本しかなかった。

物乞いは、エドの視線に気付いたように顔を半分だけ上げた。弱々しい視線を合わせようとしないのは、処世の術なのだろう。

「こう雨が続くと、戦争でなくした足が痛むんでさあ」

まるで独り言のように、しわがれた声が呟いた。

「あるはずのねえ足が、しくしくしくしく痛んで、夜も眠れねえ」

無視すればいい、話だった。

エドは、ポケットをあさって、銅貨を一枚、放った。
濡れた石畳の上を数回跳ねて、硬貨は物乞いの目の前で止まった。

「ありがてえねえ」

まるで他人におこった幸運のように、しわがれた声が呟くのに、エドは今度こそ背を向けた。
























「お帰りなさい、兄さん」と振り返った弟は、「に」と小さい「い」の途中で、声を変えた。

「ずぶ濡れじゃない! どうして傘借りてくるとかしないの! 兄さんは!」

「面倒臭かったんだよ」

がしゃんがしゃんと、騒々しい音をたてながら、弟は窓辺から部屋の入口へと歩いてきた。

「ちょっとの面倒を惜しんで、風邪でもひいたらどうするの! だいたいこんな天気で、服なんて乾かないからね!」

ベッドの足元に置いたトランクを開けて、アルはタオルを1本取り出した。浴室のついていない安宿には、当然、タオルも置いてはなかった。

濡れて重くなったローブを床に脱ぎ捨てると、服まで雨水は染みこんでいた。三つあみの先から伝い落ちる水滴が、足元にできた水溜りにぽたぽたと跳ねた。

「ああ、もう!」

と、世話が焼けると言わんばかりの声で短く兄を非難して、アルはタオルで金髪の頭を包み込んだ。
力強いけれど乱暴ではない両手が、がしがしとエドの髪を拭った。

「いてて、痛いって、アル!」

「誰が悪いの! 文句言わない!」

弟が拭きやすいように、エドは三つあみを解いた。面倒がって自分ではやらないと踏んでいるアルは、当然のように兄の髪を拭き続けた。本当に、世話がやけるったら、と、ぶつぶつ言いながら。

「アル」

「なに、兄さん」

少し強い口調で、弟が答えて返す。エドは右手を上げて、手招きするように指先を上下させた。

「ちょっと、しゃがめ」

低く出した声は、無様にひび割れた。タオルを動かす手が止まり、「兄さん?」と訝しげに弟が尋ね返す。
がしゃんと甲冑の足が跪く音がして、視線の高さに鎧の頭部が現れた。弟の眼窩は真っ暗な空洞なのに、首をかしげた弟がきょとんと見上げているように、エドには見えた。

水を吸って冷たくなった両腕を、エドは弟の首に回した。ぴったりと身体をくっつけて、まわした腕の先がやっと届く、その場所が、弟の魂の在り処だった。空っぽの鎧の中に、あるのは魂だけ。

「やめてよ、兄さん、鎧が錆びちゃうよ」

本気で嫌がる弟の声に、エドはいっそう腕へと力を込めた。

「うるせえ、こっちはぬくぬく留守番してたおまえと違って、雨ん中歩いて腕も足も錆びそーなんだよ」

「だからって、関係ないよ!」

はなしてよー、とじたばたする弟を、意地になったようにエドは離さなかった。

「なあ、アル?」











片足がないだけのじいさんが、夜も眠れないほどの痛みに苛まれるなら。



全身のないお前はどれだけ痛いんだろうな。











「明日は晴れるといいな」



「いいたいことはそれだけなら、もう、着替えて寝てよっ!」と、すっかりむくれた声はそう言って、ぽかりとエドの頭を叩いた。












窓の外では、まだ冷たい雨が降っている。




















04.1.19
鋼3本目。じゃれる兄弟。予想以上の可愛さに自打球気味です。かーわいいー。