忘れないよ



















扉の向こうから大きな呻き声が聞こえてくる度に、アルフォンスと兄はびくりと飛び上がった。

「怖い」とか「大丈夫かな」とか「いつまでかかるんだろう」とか、そんな言葉もすっかり言い尽きて、今はただ祈るように廊下の隅で縮こまっているしかなかった。

壁の向こう側では、幼なじみが出産に立ち会っている。
 
苦しそうな呻きや悲鳴のような叫び声を聞きながら膝を抱えて震えているうちに、アルフォンスは前にも同じことがあったような気がしてきた。

幼なじみは扉の向こうで、誰かが呻き声をあげていて、アルフォンスは廊下のすみで震えていて。

ああ、そうだ。

アルフォンスは思い出した。
 
兄さんの、機械鎧の手術の時だ。






















機械鎧の装着手術について、アルフォンスはあまりよく知らなかった。

幼いアルフォンスも兄も、隣家の家業よりも錬金術のほうが興味があった。ただ、機械鎧の装着手術には大人でも悲鳴をあげるのだと、幼なじみが話すそれに、痛いのが苦手なアルフォンスは恐ろしく思い、兄は強がりなのか自分だったら平気だとそう答えていた。

その兄は今、機械鎧の装着手術中だった。
施術用の部屋の中には、義肢装具師のピナコと彼女の孫娘のウィンリィがいる。アルフォンスもさっきまでは兄の横たわるベッドの側にいた。手術が始まる前に、ピナコに外に出ているように言われて、アルフォンスは部屋の前の廊下の隅っこで膝を抱えた。

ドアを閉める間際に振り返って見た兄の顔は手術の緊張にこわばっていたが、金色の目はアルフォンスのよく知る眼差しを弟へと向けていた。

自信と強い意思に満ちた、ゆるぎない兄の目だった。

低く押し殺したような声が短く聞こえてきて、アルフォンスの肩は反射的にびくりと跳ねた。アルフォンスが部屋の外に出てから、金属の削られるような音に時折、抑えきれずに漏れる苦痛の声が短く混じった。

神経を機械と繋ぐため、完全には麻酔の効いていない状態で手術をするのだと、青い顔をした幼なじみがアルフォンスにそっと教えてくれた。

アルフォンスに想像できたのは生えかわりの歯を無理やり抜かれた時のことで、痛みに涙をこぼす弟に、神経がまだ繋がってたから痛かったんだと言って頭を撫でてくれたのは兄だった。

その時の痛みを、何も感じない鎧の身体で……魂だけで思い返すよりも、いつもはピンク色をしている少女の頬が紙のように白くなっていることの方が、アルフォンスには理解できた。

「……っ、あぁっ!」

声になりきらない叫びに、鎧ががしゃりと震えた。アルフォンスはぎゅうっと足を胸に抱き寄せた。怖い。兄の苦痛が……痛みが、怖かった。あとどれぐらいかかるんだろう。もう、何時間もこうしているような気がしていた。早く、早く終ってほしい。

魂だけのアルフォンスに肉体の感覚はもはやなかったが、それでもひどく不安な時や焦燥している時のように心臓がぎゅうっとなる嫌な感じが、胸当ての内側の空洞に確かにあった。

片腕と片足を失い、血溜まりの中に倒れこんでいる兄の姿を見た時も、同じように胸の内側が不安と恐怖でいっぱいになった。それに、とても似ていた。 

聞こえてくる機械の音や声にならない悲鳴に、アルフォンスは耳をふさぎたかったがそれもできなかった。

兄さん。

閉じることの出来ない目で廊下の木目と自分の鎧の膝を見つめ、耳を塞ぐ代わりにアルフォンスは兄を呼んだ。

兄さん、兄さん、兄さん。

身体を縮めて、兄を呼び続けて、そうしているうちに、ふいに目の前のドアが開いた。

「終ったよ、アルフォンス」

薄い緑色をした見慣れない上掛けを着たピナコが、腰を叩きながらドアから出てきた。ひどく疲れた表情を浮かべた顔を見上げると、鎧の頭部ががしゃりと音をたてた。

兄の呻き声も、機械の音も金属の音も、もう何も聞こえなくなっていた。静かな廊下に、ぺたぺたと歩く軽い足音が近づいてきた。

「エドワードのとこに行っておやり」

まったく、大の大人だって失神するってのに、と、すれ違い様にピナコが呟いた声は、立ち上がった鎧のたてる音に紛れてアルフォンスには聞こえなかった。

開いたままのドアから、アルフォンスはそっと中をうかがった。
 
広い部屋の真ん中に置かれたベッドの上に、エドワードは弟が出て行った時と同じに身体を起こしていた。背もたれ代わりにマットレスによりかかって。違うのは、金色の髪が濡れて額にも首筋にも張り付いていることだけだった。

細々とした器具を片付けながら俯く幼なじみの青い目には、こぼれそうなほどの涙がたまっていた。

アルフォンスの足は、ドアの前で動かなかった。兄の右腕は包帯に包まれ、左足は白い布の下に隠れている。失われた腕と足の代わりに、機械鎧を繋ぐための接続部が今はそこにあるはずだ。

アルフォンスに先に気づいたのは、兄だった。

「アル」

と、いつもと変わらぬ声がアルフォンスを呼び、エドワードの声につられたようにウィンリィがドアへと顔を向けた。
 
ほっとするような、泣き出すような、そのどちらもにウィンリィの顔が歪む。

「どうした?」

どうして入ってこないのかと、そう尋ねる兄にアルフォンスはおずおずと足を踏み出し、ベッドの傍らに近寄った。

「なんだよ、変な顔して」

アルフォンスを見上げて、エドワードは口の端を上げた。ベッドの反対側でウィンリィが口を閉ざして目を見開くのが、アルフォンスの視界に映った。鎧の頭部に、表情など浮かぶはずがなかった。変な顔も何もない。

けれど鎧の姿でなかったら、その時、確かにアルフォンスは兄の言う通り、変な顔をしていたのだと思う。

しょうがないなと言うように、まだ汗の引かない顔に苦笑をひらめかせて、生身の小さな手が鎧の手に伸びた。

小指の端を包むようにアルフォンスの手を握って、エドワードはまた笑った。
その笑顔は、怖がりな弟を安心させるためのいつもの兄の笑顔だった。

繋がれた手の感触はなくても、安心できるのだとアルフォンスは初めて知った。
























ドアの向こう側でうめき声はいよいよ苦しそうになり、嵐の音は家を揺さぶるような勢いを増していた。

ガタガタと震える音が、自分の鎧のたてる音なのか廊下の窓が鳴る音なのかもわからない。
 
心細さに俯いて、アルフォンスは兄の名を呼ぼうとした。

けれど、床を映した視界の隅に鎧の膝を抱きかかえた自分の手と、その手を上から包むように添えられた白い手袋が映って、アルフォンスは言葉を飲み込んだ。

音をたてないように頭を傾けて、傍らに座っている兄をうかがうと、エドワードは真剣な眼差しで閉ざされたドアを睨んでいた。

アルフォンスの手を握っていることに、気づいていないようだった。

一人で兄の手術が終るのを待っていたあの時に似ているけれど、でも今はその兄がアルフォンスの隣にいる。側にいて、手を握ってくれている。

兄の手は、今は鋼の手だったけれど。

それでもやはり温かいように、アルフォンスは思った。

ドアの向こうでお産は続き、かつて蒼白な顔をして泣きそうになっていた小さな女の子は、自ら決意して新しい命をとりあげようとしている。

少しだけ、嵐の音が遠くなった気がした。

神さま。


兄を呼ぶ代わりに、アルフォンスは祈った。
 
無事に赤ちゃんが生まれてきますように。母さんと赤ちゃんを守ってください。ウィンリィを助けてあげて。
 








やがて新しい星が生まれるように、小さな命がこの世に生を受けた。
























04.10.3
10.3 イベント参加(自分)記念に作ったペーパーから。