レッスン





























「って」

小さく舌打ちするように言って、エドは眉を寄せた。
湯気をたてるカップの縁から口を離したエドに、書類の束を胸に抱えた中尉が振り返って首を傾けた。

「どうかした?」

熱い、ではなく、痛い、を縮めた声を、耳ざとく聞きとめた口調に、エドは舌で口腔をそっと探るようになぞりながら、口を開いた。

「こうらいえん」

「口内炎?」

耳のいい中尉に、エドは頷いた。

「口ん中切ったのが、口内炎みたくなった」

「医務局で見てもらったら? 薬を塗ると治りが早いわ」

「んー」

返事を濁して、エドは慎重にカップに口をつけた。

「注射が怖いから、医務局には行きたくないんだよなあー? 鋼の?」

子供の気持ちを代弁するような大人の口調で、それまで静かだった窓際の執務机の辺りから声がそう言った。

「うるせえ仕事しろクソ大佐」

視線だけ向けて睨んだが、つみあがった書類の向うには黒髪がわずかに見えるだけだった。

中尉は視線を伏せて軽く息を吐き出して、執務室のドアから決済の下りた書類を持って出ていった。

静かにドアが閉まると、狭い執務室はぱらぱらと書類のめくられる音とエドがぎこちなくコーヒーをすする音だけになった。

持て余す時間と静寂に、エドは半眼で書類のつみあがったデスクを眺めた。

サイン一つで済むエドの提出書類を、大佐はご丁寧に膨大な書類の一番最後に加えた。仕事の内容にかかわらず、順番通り、公平に。

子供のような低次元の嫌がらせに困ったものだとため息をつきながら、けれど上司を咎めることもない有能な中尉は、エドのためにコーヒーを煎れて、応接ソファのテーブルに置いてくれた。

大佐に悪態をつき、ソファに反り返って、いっこうに回ってこない順番を待ちながら、エドはどう解釈したものかとずっと考えている。

これは、自分を引きとどめようとしているのだと、思っていいものだろうかと。
一緒にいる時間を稼いでいるのだとか。

そんな風に錯覚して誤解して都合よく解釈して、喜んだりしていいものなのか。

そう思いたいという自分の気持ちは無視して、エドは書類の山を眺めた。その向うに、ふいに現れて手招きした白い手を。

「……?」

好奇心よりも不審感に眉が寄る。エドが見ていることを疑っていないように、おいでおいでと骨ばった手が揺れる。

カップをテーブルに置いてしまった時点で、もう自分の負けなんだろうと頭のどこかがそう理解する。

エドはそれでも渋々というように、ソファからゆっくり立ち上がった。

執務机の前に立って見下ろす先で、大佐は肘をついて組み合わせた両手の上に顎を乗せていた。
にこり、と。笑っているように見えない笑顔が、エドを見上げる。

「そんなところに立ってたんじゃ、キスができないではないか。鋼の」

半開きの目でバカにするように見下ろしながら、この目の前でうすら笑っている男は仕事に飽きて人をからかっているのだと、エドの頭のどこかはちゃんとそう理解していた。

そして、もっと冷静に醒めてそれでいて一番熱い部分で、知ったことかと衝動のように思った。

余裕かまして人を子供扱いして、何を言ったってしたってしかけたって、ひらひらかわしやがるこいつが何を考えてたって、どんなつもりだって知ったことかと。

そう思いながら、エドはつみあがった書類の山を床に払い落として、足蹴にして、執務机の上に膝をついて。



誘うように赤い唇に噛み付いた。



























そして次の瞬間には、痛みと後悔と自己嫌悪。
























「大人の忠告はききたまえよ、鋼の」

思わず口を押さえて机の上にうずくまるエドに、大佐は晴れやかにそう言って、また書類をめくり始めた。




















04.1.28.
東方司令部のある昼下がり。.