smoke rose toward the moon |
座り心地の悪い椅子に強張った背中を預けて、ハボックは両手を天井に突き上げた。 「お疲れ様でした、少尉。やっと帰れますね」 一つ挟んで隣のデスクで、書き終わった書類をそろえていたフュリーが童顔に笑顔を浮かべた。丁度、仕事が終ったのか、ペンはペンたてに戻されて、厚みのある紙の束がクリップで止められているところだった。 首を左右に傾けながら、ハボックは「いんや」と答えた。とたんに人の良い曹長は、申し訳なさそうな顔をした。 「お疲れさん」 ひらひらと手を振ってやると、「すみません」と困ったようにフュリーは笑った。広い司令室に残っているのは、ハボックの他に数名しかいない。電灯の皓々と光る居室の窓の外は真っ暗だった。 「気をつけてな」 「はい。それじゃ、お先に失礼します」 敬礼の代わりに軽く頭を下げて、フュリーは席を離れた。ドアに向かう小柄な背から机の上の書類へと視線を戻したところで、電話のベルが鳴った。 「はい、東方司令部司令室」 ドアのすぐ隣にならんだ電話機から受話器を取って、フュリーが応答した。タイミングの悪い曹長に苦笑して、ハボックは煙草の箱に手を伸ばした。火は点けずに、フィルターを歯に挟む。 「えっ、はいっ、え? マスタング大佐ですか?」 慌てた声が直属の上司の名前を呼ぶのに、ハボックは顔を上げた。背の低い曹長の後姿は、声を潜めるように背中を丸めていた。 「えっ、でも、私用に車をつかうのは……、はあ……」 おどおどとした声は、すっかり弱りきっていた。実直で歳若い曹長が、いい加減で強引な上司の命令に困窮するのはいつものことだ。 ハボックは、煙草の箱を軍服のポケットにつっこんで立ち上がった。 「曹長」 すっかり眉尻の下がった顔が、受話器を握り締めたまま振り返った。 「あがっていいぞ」 声を小さく絞って、ハボックは受話器を取り上げた。感謝を浮かべる目がハボックを見上げ、すみません、と礼を言う。片手を上げて応えて、ハボックは受話器を耳に当てた。 「電話代わりました。ハボック少尉であります」 回線の向こうに、静かに流れる音楽とざわめきが聞こえた。 青白く光るガス燈にむかって、白い煙が昇った。 ドアが開き、喧騒と灯りが路地に流れ出す。車のボンネットに預けていた腰を浮かせて、ハボックは煙草を石畳に捨てた。 「よう、少尉」 「どうも」 背筋を伸ばして敬礼しながら砕けた返事をする下官に、中佐の階級の軍人は口の端を上げた。左肩によっぱらった男をぶらさげているようには見えないにこやかな笑顔を浮かべ、しっかりとした足取りでマース・ヒューズ中佐は路地に停めてある黒塗りの車のもとへやってきた。 「時間外労働、ご苦労さん」 「残業時間につけときますんで」 「おお、しっかりしてるな、お前さんの部下は」 なあロイ、と、ハボックには聞きなれない名前で、ヒューズが友人を呼んだ。呻くように返事をするその声は、なんと言っているのかわからない。ハボック、と、呼ばれた気がした。 「なんすか、大佐」 地面に顔を向けている相手に、首を傾げて聞き返す。応えるように、白い手袋をはめた左手がハボックに向かって持ち上がった。 一瞬、その指先が擦り合わせられるのではないかとぎょっとして、ハボックは身体を逸らした。 「馬鹿者、手を貸せ」 思いのほかしっかりした声に命令されて、思わず背筋が伸びそうになった。従順な条件反射。しつけられた犬の性だ。 ハボックが腕を伸ばしてその手をとると、軍服の二の腕を強い力で掴まれた。けれど、一歩踏み出したところで膝が崩れる。自由な方の腕も差し出して、ハボックは上官の身体を抱きとめるように支えた。 「おっと、しっかりしろよ」 貸していた肩を引き抜いて、ヒューズは凝りをほぐすように首を傾げた。 「こいつ、酔っ払うと足にくるんだ」 「うるさい。知ったような口をきくな」 「だって知ってんだもーん」 むっと口を引き結び眉を寄せる腕の中の相手を、ハボックは「よいせ」と掛け声をかけて抱きなおした。 「そんなわけだから、家まで頼むわ」 ヒューズの手が友人の肩に伸びて、ぽんと軽く叩いた。ハボックの二の腕を掴む手に、力が入った。 軍服の上にはおったコートのポケットから煙草の箱を取り出して、ヒューズは大通りへと足を向けた。 「ホテルまでお送りしますよ」 「いい、いい。職権乱用は趣味じゃないんでね」 ヒューズは振り返らずに、ひらひらと手を振った。断る上官に重ねて申し出る差し出がましさも持ち合わせてはいなかったので、ハボックは歩いてゆく背中を見送った。 腕を掴む手には、力が入ったままだった。 上司の士官学校時代の学友を、ハボックはその男しか知らない。 軍法会議所に勤務し、妻子持ちで、しょっちゅう上官あてに私用電話をかけてきて、東方司令部に軍務で足を運ぶたびに友人を酒に誘う。 その旧友と酒を飲むたびに、ハボックの上官はひどく酔った。 翌日の司令部に昨夜の醜態をからかってかけられてくる電話の内容や、二日酔いと書いてあるようなしかめ面や、身に覚えのないらしい腕や足の痣に、そうらしいと憶測するそれを、実際に目にするのは、初めてだった。 「大佐ー、大丈夫っすかー? 吐くなら言って下さいよ、車止めますから」 「……うるさい」 後部座席のシートに頬をくっつけて、浅い息をつく間に声が応えた。 こりゃまた随分できあがってんなあ、と。火のついていない煙草をくわえ、ハボックはバックミラーに映っている顔を盗み見た。 目を閉じて眉間に皺を寄せる表情には、酩酊の心地よさなど欠片もないようだった。酒に弱いという話は聞いたことがないから、よくない酔い方をしているのか。それとも、気分が悪くなるほど飲みすぎたのか。 「大佐ー、もう少しの辛抱ですから、吐かんでくださいよ」 「……いいから前を見て運転しろ」 固く目を閉じたまま、ロイは呻くようにそう言った。まるで、ハボックがミラー越しに見ていることを知っているようだった。 ハボックは片手でバックミラーを直し、車通りの絶えた道路に目を向けた。 教えられた住所には、ほどなく到着した。門の前に車を止め、ハボックは後部座席に声をかけて振り返った。 「着きましたよ」 「ん……」 目を閉じたままシートに手をついて起き上がり、ロイは自分でドアを開けた。 キーを抜いてポケットに入れ、ハボックは車から降りようとする上官に肩を貸した。アプローチを抜け、ドアの鍵を催促すると、コートのポケットから出てきたそれを渡された。 部屋の中は真っ暗だった。手探りで照明のスイッチを入れ、片手に上官の身体を支えながらリビングにたどり着く。 調度品は整えられているのに、殺風景な部屋だった。広さのせいもあるのかもしれないが、片付いているのに雑然とした印象があった。 リビングから続くドアが二つあり、ハボックは担ぐように肩を貸した相手に尋ねた。 「大佐、ベッドはどっちです?」 「ここでいい」 と答えたかと思うと、ロイはソファの上に崩れ落ちるように身体を預けた。革張りのシートの背に顔を寄せて、気持ち良さそうに目を閉じる。 「大佐、そんなとこで寝ないでくださいよ」 「うるさい」 「風邪でもひかれたら、俺が中尉に撃たれます」 「私のために命を落とすならお前も本望だろう」 「異論はないですけどね、理由ぐらいは選ばせてくださいよ」 軽口に本心で返して見下ろすと、ソファに頬をくっつけた顔がうっすらと目を開いて顎を上げた。 「おまえが来ると思っていた」 笑うでもないその表情を、どう言ったらいいのだろう。ほんの一メートル先で、だらしなくソファに身を預けているのは、ハボックの上官で男だ。なのに、欲情した。 「大佐、俺、お誘いは断らない主義なんですけど」 「いい心がけた」 乾いた喉から余裕ぶって返した言葉に、ロイは余裕たっぷりの笑みを閃かせた。ハボックは薄く開いた唇の間に舌を入れ、喉の奥までむさぼるように口付けた。 |
04.11.28。 「smoke rose toward the moon」 エロがないとこまで転載しました。 |