※兄弟テキスト「やさしいひと」の続きです
鋼鉄の乙女





























「仕事なんかしたくなくなるような晴天だなあー」

執務室の窓を開け放って、ロイは同意を求めて振り返った。しかし、彼の美しい副官は、表情ひとつ動かさずにトレイから白いカップを執務机の上に置いた。

「そう思わないかい? 中尉?」

「晴天なのには同意いたしますが、それ以外には同意しかねます」

まあ、そうくるだろうとは思ったよ。

静かに目礼して退室する中尉を窓辺から見送り、大佐は入口へと向けていた視線を手前のデスクと座り心地の悪い椅子と、積みあがった書類の束と、控えめに置かれた白いカップへ順に移した。この中で最もやっかいなのは、腰の痛くなる椅子でも眠くなる報告書の山でもなく、部下が好意で煎れてくれた紅茶だった。

美しく有能な副官の煎れる紅茶の味を、ロイは知っている。恐ろしく不味いのだ、あれは。

天は二物を与えずなどと言うが、三つ四つなら気前よく与えてくれるものだった。けれど全ては与えてくれない。彼女が唯一もらい損ねたのは、料理全般に関するギフトだった。

さて、どうやって片付けたものかと、仕事の山を目の前にするよりも暗澹とした気分になって、ロイは両腕を組んだ。声が聞こえてきたのはその時だった。

「あんま、うろうろすんなよ、アル」

小さな子供がさらに小さな子供に命令するような声には、聞き覚えがある。というより、まがりなりにも軍の敷地内で聞こえてくる子供の声など、他にあってたまるか。

「わかってるよ、子供じゃないんだから」

と答えたのもどこから聞いても子供の声だった。先に聞こえたものよりは、ずっと甘くて幼い。けれど、声の主は厳つい鋼の鎧。

ロイは腕を組んだまま、開いた窓から下をのぞいた。コの字に折れ曲がった官舎に囲まれた、中庭とも呼ぶべき芝の上に、豆粒のような小さな身体と大きな甲冑が並んで立っていた。

「知らない人についてったら、ダメだからな」

どう見たって人攫が狙いそうもない巨漢相手に、しごく真面目な声が念を押す。「なに言ってんだか」と呆れた返事に、ロイもおおいに頷いた。金髪の兄は鎧の弟に、これで本気で言っているのだから恐れ入る。

「アル」

「はいはい、おとなしく待ってます。ここなら誰の邪魔にもならないだろうしね」

鋼の弟の体躯は、それだけで場所をとる。なるほど、人通りのないそこそこ広い庭ならば、誰の邪魔にもならないだろう。おまけに今日は天気がいい。

ロイは視線を空へと上げた。陽射しの暖かさも心地よく澄んだ空気も、鋼鉄の肌しか持たない者には関係のないものかもしれないが。

「すぐ戻る」と言い置く声に、ロイはまた視線を戻した。兄の左手が、甲冑の右肩にふれるのが見えた。指先を伸ばしてふれてから、手のひらをひたと添わせる。鋼鉄の鎧にふれるような、仕草ではなかった。
時折、鋼の兄が弟にふれる際に見せる手つきだ。

生まれたての鳥の卵にふれるような、壊れやすいものを扱うような手つきに似ていてそれとは違う。

ロイは離れてゆかない左手を見下ろしながら、適切な比喩を考えた。ただ、そっとふれるだけではない、一瞬の深い感情を込めるあの手は。

まるで、鉄の扉の向こうにいる、たおやかな美女に思いを寄せるような。

なかなか詩的な比喩が思いついたことに満足して、ロイは未練がましい手がやっと離れたのを機に机に戻った。湯気ののぼるカップの中身をどうするかという命題を抱えたまま。























13回目のあくびを数えて、ロイは「やーめた」と執務机に両腕を投げ出した。放り出したペンがくるくる回って机の反対側から絨毯に落ちた。む、しまった。しかし、まあいい。

中尉が戻ってくるまでに拾っておけば問題ない。むしろ問題なのは、すっかり冷え切ったカップの中身だ。

ロイは半眼になって白いカップを眺めた。

飲みたくはない。しかし、残したくもない。

となればやはり捨てるしかないだろう。ロイは室内を見回した。与えられた狭い個室の中には、執務机とソファが一対とテーブルと、本棚。証拠隠滅の片棒をかついでくれる観葉植物の姿はなかった。
絨毯……よりは、窓の外だろうな。

ロイはカップを片手に立ち上がった。朝、開けてそのままの窓の側に立って、万が一にも目撃者など残さないように中庭を見下ろして。

数時間前に見た時と同じ場所にある鎧の姿に、視線が固まった。

官舎の壁に背を預けて座る鋼の弟は、空を見上げているようだった。心持ち上向いた顔が視線の向きと同じならば、彼は空を見ていた。水色の空と、光のかたまりのように輝く太陽を。まるでその陽射しを、心地よく感じているかのように。

熱さも寒さも、草木をめぐって渡る風も感じることのない身体に繋ぎとめられた魂が、自分が感じることのないそれらに心を傾けているのが、わかった。

全身全霊で、自分の感じ得ないものを理解しようとする姿は、確かにあの兄との血のつながりを納得させる。兄同様に、弟もまた生まれながらの錬金術師だ。

練金の基本はまず、理解だ。

口の端に笑みを浮かべて、ロイは手の中のカップを傾けた。






































「悪ふざけが過ぎるのではないですか」

陽あたりのいい中庭から官舎に足を踏み入れたとたんに、ひやりとした声が聞こえてきて、ロイは思わず背筋を伸ばした。

ゆっくりと視線を向ければ、声同様に冷ややかな目がわずかに低い位置から射るように見上げていた。

軍門の家系であるホークアイ家の家名が、遠い昔にこの地方を治めていた国王から弓矢の腕前を認められて下賜された名であるという由来を聞いたのは悪友からだったろうかと、ロイは一瞬で過去の記憶に意識をめぐらせた。

軍門の名家の名に恥じず、ロイの副官の射撃の腕前は軍内でも一、二を争う。優秀な腕を持つ部下の銃口が自分に向けられるのでは、洒落にならないが。

「なんのことかな」

無駄な足掻きとは思ったが、ロイは素知らぬふりで答えた。

「あまり苛めては可愛そうです」

促すように逸れた中尉の目線を追って、ロイは後にしてきた場所を振り返った。
陽の光にあふれる中庭は、暗い建物の中から見るとまぶしかった。ロイは思わず目を細めたが、かたわらの中尉は表情を変えなかった。

中尉の視線の先には、そろって歩き出す兄弟の姿があった。少し先を歩く弟の後を、わずかに遅れて兄がついてゆく。

「……中尉……、いつからここに?」

まだ明るさに慣れない目を細めたまま、ロイはおそるおそる訊ねた。

「待ち人の来ない相手へ近づく口実に、大佐が三階の窓から紅茶を捨てているところから」

「む、そんなつもりで捨てたわけではないよ。虫が入ってしまってね。せっかく君が淹れてくれたのに申し訳ないことをしたが……」

「アルフォンス君をしばらく窓から眺めてらしたように見えましたが」

そんなところから見ていたのかと、ロイは部下から首ごと視線を逸らした。怖い。声に怒っている様子がかけらもないのが怖い。

「や、それは……」

「大佐が少年も守備範囲とは存じ上げませんでした」

中庭から兄弟の姿が見えなくなると、中尉はそう言って背を向けた。執務室へと戻ってゆく部下の後を、ロイは数歩遅れて追いかけた。

「いや、それはさすがに範囲外なんだが、なんというか、こう、あれが弟にふれる手つきを見ているとだね、錯覚するというか」

振り返らない中尉の意識が、自分の言葉に興味を覚えたのを感じて、ロイは言い訳を続けた。

「まるで、あの鋼の鎧の中に、うるわしい令嬢でも隠されているような気にならないかい?」

「本気でおっしゃってますか?」

「むろん、冗談だ」

ふう、と、中尉はため息をついたようだった。「私には、母親のお腹にさわる子供のように見えますが」と、どこか厳粛な声はそう言った。

まだ見ぬ弟か妹に、母親のお腹越しに愛しそうにふれる手と、まなざしに見えると。

まったく違った比喩に、ロイはなるほどそういう見方もあるのかと納得した。深い慈しみを込めてふれるあの手には。

「それより、紅茶の味がお気に召さないようでしたら、そうおっしゃってください。淹れなおしますので」

「いや、本当にあれは虫が入ってしまってだね」

「そういうお優しい嘘は女性相手にどうぞ。私は女ではありませんから」

とりつく島もない声が言い捨てるそれは、任官して間もない相手から言われた台詞とまったく同じだった。女扱いはするなと、厳しく見上げた目は、猛禽類の瞳のように鋭く美しかった。女性へのほめ言葉としてはどうかと思うが。

真っ直ぐ伸びた背の後ろをついて行きながら小さくついたため息は、どうやら耳のいい相手に聞きとめられなかったようだった。

「わたしは部下にも優しくする上司だがね」

「ハボック少尉には、不味いから淹れなおせとおっしゃってませんでしたか?」

「あいつにはあれぐらいで丁度いいんだ。甘い顔をするとつけあがるタイプだからな」

「わかりました。では、今後も大佐にお入れする紅茶はあの味にします。淹れなおすように言って頂けるかどうか確認するために、多少不味くなるように淹れたのですが、お気に召したのなら」

わざとだったのか!

と、かろうじて声には出さず、「こちらこそあまり苛めないで欲しいものだ」と言葉を変えて呟くと、くすくすと笑う声が数歩前を行く背中から聞こえてきた。





私も甘やかすとつけあがりますよ、とそう言って。



































04.2.3

アイロイだと言い張ってみます。「やさしいひと」の2です。ホークアイ中尉の家名のゆらいは勝手に考えてみました。