エドアル 10 TEXT
ひとり





















ランプの芯が細くなり、小さくなった炎が橙色に揺らめいて、本に顔を伏せていた兄の前髪が揺れた。
炎に照らされたあたたかい金色の髪を左手でかき上げて、眉間に皺を寄せて目を細める。読書に疲れて、兄がよく見せる仕草だった。

「兄さん、もう寝たら?」

アルは自分もそうすると言うように、読みかけの本をぱたんと閉じた。「ああ」と弟に答えて、エドは椅子から立ち上がった。革表紙の分厚い本を机の上に閉じて、ベッドにもぐりこむ。

「おやすみ」

「んー」

答える声は、本から離れた途端に眠そうだった。寝つきのいい兄は、数分後には眠りについてしまうだろう。朝がやってきて兄が目を覚ますまでの時間、アルは一人で過ごす。

夜の中に一人置き去りにされるのは、とても心細く、淋しいことのように思えるが、そんなことはなかった。

ランプに油をつぎ足して、アルは読書に戻った。十分もしない内に、ばさりと聞きなれた音がする。顔を上げる前に、アルは椅子から立ちあがっていた。行儀よく枕に預けたはずの金髪の頭は、シーツにずり落ちて、片足が掛け布団を跳ね除けている。

兄は寝相が悪い。子供の頃からそうだ。多分、赤ちゃんの頃からそうだったんじゃないかと思う。一晩に五、六回は、跳ね除けられたりベッドからずり落ちたりする掛け布団をなおしてやるのが常だった。そのままにしておけば翌朝お腹をこわすので、放っておくわけにいかない。旅を宿とする身で体調を壊すのは、やっかいだ。

上にのっかっている足をそうっとすべり落として、アルは布団をかけなおした。立ったついでに兄のベッドの足もとのトランクを取り、空いている方のベッドの上に移して、アルは荷物の整理を始めた。買い足すものは覚えておいて、後でメモを作る。旅の目的や生業上、紙とペンとは必需品だ。それから、兄の衣類や、携帯食など。

鎧の手入れ用のオイルがなくなっていたので、それもメモに書き加えることを忘れないように。ってことは、明日の買い物にはついて行かないと。

リストを作るのはアルだが、買い出しは兄の役目だった。兄はまったく頓着していないが、アルは兄の収入を勝手に使うのが嫌だった。面倒がって弟に財布を預けようとする兄に、アルは断固としてそれを拒んでいた。国家錬金術師としての収入は兄のものであって、1センズだってアルのものではない。

けれど、オイルを買う時は別だ。アルも一緒に買い物に行く。でないと、兄は店に置いてある一番高いオイルを買って来てしまうからだった。探すのが面倒臭いなら、お店の人に出してもらえばいいとアルが言うと、それも面倒なのか、次からはそうするとか、それだって使えるだろとかなんとかお茶を濁してまた同じ事を繰り返す。

だから、兄が勝手に高いオイルを買わないように、アルも一緒についてゆく。
たいていの商店はアルの規格には合わないので、そういった意味でもできれば兄一人で買い物をすませてほしかったが。

「ふう」と、アルはつけないため息の代わりに、気持ちを小さく言葉に変えた。本当に、手のかかる兄を持つと面倒がたえない。落ち着ける時間は、眠ってくれている間だけなんて、赤ちゃんのいるお母さんみたいだ。

アルの心の呟きに反論するように、「うーー」とうめくような声と、ばさっと布団が撥ね退けられる音が聞こえた。はいはい。

ベッドからはみ出している腕を、かけ直した布団の中に入れて、アルはだらしなく口を開いて眠る顔を見下ろした。

お嫁さんをもらうようになるまでに、兄さんの寝相の悪さが治ればいいけれど。
そうじゃなかったら、こんなに寝相の悪い人にも根気よくお布団をかけなおしてくれるような人がお嫁さんになってくれればいいけれど。

机に戻ってペンを取り、アルは明日買い出す物を紙片に書き出した。

兄のお嫁さんという着想に、アルはもうちょっと想像を膨らませてみた。多分、アルを元の体に戻すまで、兄は結婚という選択肢が人生に訪れてもそれを選ぶことはしないだろう。けれど、アル自身としては、結婚したいと思うほど好きな人ができたら、兄には幸せになってほしいと思う。結婚して、家庭を持って、人体練成の研究を続けるのでもいいだろうと。

でもそうなると、父さんみたいになっちゃうのかな。

兄は父を憎んですらいたが、幼少の一歳差の大きさのせいか、アルにはそこまでの感情が父に対してなかった。その半面、恋しく思うこともない。父の姿が記憶にあまりないのも、感情の薄さの原因かもしれないが、それでもはっきりわかるのは、父と結婚して、母は間違いなく幸せだったということだ。兄とアルとが生まれて、幸せだったということだ。

思い出す母親の顔はどれも笑顔ばかりだったから、あの人が不幸であったはずがない。

ずっと一緒にはいられないから、初めから一緒になることを選ばないというのは、多分、その方が人を幸せにはしないんじゃないかと、アルは思った。

兄には、ちゃんと幸せになってほしい。たとえ自分は一生このままでも、と思うと、少し悲しい気分になるけれど。兄のお嫁さんになる人が、鎧の身体の弟がいても気にしない人だったらいいなと、アルは少し悲しい気分になりながら思った。

だが、そんな気分も、押しつぶされたひきがえるみたいな声に邪魔された。

「まったく……、人がちょっと悲しくなってる時ぐらい、静かにしてよ」

途中まで書いて止まっていたペンを動かし、残りを一気に書ききって、アルは椅子から立ち上がった。
ベッドの端から布団ごと転がり落ちそうになっている兄を、「よいしょ」と引っ張り上げる。「んー」と、寝言なのか寝ぼけているのか、兄のうめき声はなんと言っているのかわからない。

枕に頭を乗せなおしてやった兄の寝顔は、苦しそうに眉根を寄せていた。開いた口がかすかに動いたが、夢の中の兄の言葉はアルには聞き取ることができなかった。

時々、兄は夢にうなされる。

翌日の朝食に、昨夜、見た夢を話題にすることもあって、そういう時の兄の夢の内容は本当に下らない。そして、目を覚まして、アルを眩しそうな目で見たり、あからさまにほっとしたように肩を落とす時は、決してうなされた夢の話を兄はしなかった。

くだらないものから深刻なものまで、兄のうなされる夢の内容を100は思いつくけれど。

アルはベッドのかたわらに膝をついて、布団からはみだしている兄のてのひらをそうっと自分の手の中に包んだ。

今、眠りの中に一人いるこの人の見ている夢がそのどれなのかはわからないから。アルは、時折、悪い夢を見る兄と、夜が空けるまで手を繋ぐ。夢の中に自分が出てくればいいと、ちょっとだけ願いながら、手を繋ぐ。

そうすれば、どんなに怖い夢でも悪い夢でも、少なくとも一人じゃないから。

細くなってきたランプの灯りに照らされた兄の寝顔が、少しだけ苦しそうではなくなったように見えた気がした。油の切れたランプの灯火は間もなく消えて、部屋の中は真っ暗な闇に包まれるだろう。机の上の本は、今夜中に読みきってしまうつもりだったのに。本当に、寝てても手のかかる兄のおかげで。


















独りの夜を、辛いと思う暇もない。




























04.2.27
兄さんが寝ちゃった後に一人になってもアルは淋しくなかったらいいなと思います。兄さんの嫁にはアルがなってあげたらいいと思います。賢者のおくりもの