やさしいひと



















陽射しの明るい午後だった。



薄く広がる空の色を見上げて、アルはぼんやりと思った。いい天気。お日様がぽかぽかしていて、薄い雲はさっきから少しも動かないから風もない。東方司令部の官舎の窓もいくつか開け放されている。気持ちよい小春日の空気を招き入れるように。だからきっと、今日は暖かい日だろう。

こんな日に、図書館にこもっている兄はもったいないことをしていると、アルは思った。

手伝えることがあれば、アルも調べものに付き合うが、今回はそうではなかった。国家錬金術師として手続きしなければならない書類のために、兄は朝から軍の図書館に缶詰になっていた。


早く、兄さんの調べものが終わらないかな。


暖かさも冷たさも感じない自分でさえ、気持ちいい気分がする天気だ。空に太陽が出ている内に、兄の用事が終わればいいなとアルは思った。

そうしたら、自分の推察が正しいかどうか、確かめることができる。今日は気持ちのいいお天気だというアルの見解が当たっているかどうか。「いいお天気だね」とアルが尋ねて、兄が「そうだな」と言って陽だまりの中の猫のように目を細くして両腕を上げて伸び上がったら。

そんなことを考えていたせいもあって、アルは自分の肩から流れ落ちる茶色い液体にしばらく気づかなかった。視界の隅に映ったそれに、なんだろうと思った視線を上げるのと、声が聞こえたのは同時だった。

「アルフォンス君!?」

訊ねて確認するまでもないだろうが、三階の窓に半身を乗り出して口を開いた相手はそう聞いてきたので、アルは「はい、僕です。大佐」と答えた。

「そこで待っていたまえ!」

あわてた様子で窓から消えた大佐の右手に、白いカップが握られたいたのが見えて、アルはなんとなく自分の肩を流れ落ちる液体の正体に気づいた。

けれど、それがコーヒーなのか紅茶なのかは、匂いを嗅ぐことのできないアルにはわからなかった。

でも、コーヒーかな、と。

アルは三階分の階段を下りてくる大佐を待ちながら、そう考えた。大佐は、なんとなく紅茶よりもコーヒーを好みそうな感じがする。濃いコーヒーを、砂糖もミルクも入れずに。なんとなく、そんな感じ。大人の、男の人だから。

母さんなら、紅茶だ。ミルクと砂糖をいっぱい入れて、僕や兄さんにも入れてくれたっけ。

牛乳嫌いの兄は顔をしかめて、けれど甘い砂糖の味に誤魔化されながら、温くさましたミルク・ティーを一気に飲み込んでいた。嫌いな食べ物でも、兄は母が出してくれたものなら残したことはなかった。

そういう兄を、優しいとアルは思う。優しくて、好きだと思う。

試したことはないけれど、きっとアルが美味しくないコーヒーを入れてしまっても、兄は黙って飲みほしてくれる気がした。うぬぼれてるかな。

そんなことを、相変わらず晴れ渡った空を見上げながら考えていたら、足音が聞こえてきた。

走るようにして現れた大佐は、右手に布巾を持っていた。真っ白な、おろしたての布巾に、雑巾じゃなくてちょっとだけよかったとアルは思った。

「すまなかった、アルフォンス君」

「大丈夫です、大佐。やけどもしてませんし」

濡れた甲冑の肩を拭こうと伸びた手に、アルは右手を差し出した。自分で拭くというアルの意思表示を、大佐は小さくかぶりを振って却下した。

「拭き残しでもあって鋼のにみつかったら、面倒なことになる」

本当に忌々しそうに大佐が言うので、アルは思わず笑ってしまった。

「別に、鋼のを怖がっているとかそうゆうわけではないぞ、アルフォンス君。誤解のないように言っておくが」

せっせと鎧を拭きながら、大佐はアルの笑った気配をそう察したようだった。

「いえ、そんなことは思ってませんから」

アルは丁寧に訂正した。ただ、子供みたいな人だな、とそう思っただけだった。大人の男の人は、感情を人前で隠そうとしたり、威厳を保とうとしたり、かっこつけようとしたりするのに。

大佐は違った。不機嫌も上機嫌も、隠さず表に出す人だった。だからかなあ、とアルは思った。大佐が女の人に人気があるというのは。

だったら、兄さんは女の人にモテないのかなあ。

大佐に鎧を拭いてもらいながら、アルはまたぼんやりと考えた。

アルの兄は、感情を押し隠そうとする人だった。早く大人になりたいと望み、大人のように振る舞い、アルの前につらさや苦しさをさらけ出したりはしない人だった。すごく子供っぽいところもあるんだけれど。

その反面、とても大人な部分のある人だと、アルは兄のことをそう思う。

「よし、大丈夫だな」

掃除のできばえを確認するように、大佐は制服の腰に両手をあてて、アルを見下ろした。いつもはアルが見下ろす背丈の差だが、官舎の壁にもたれかかって日向ぼっこをしていたアルは、立ち上がるタイミングを逸して芝の上に座ったままだった。

大佐の右手の布巾が茶色く染みになっているのが目に止まって、アルは訊ねた。

「コーヒー、ですか?」

アルの問いに、大佐は軽く眉を上げてから、「ふむ」と何かに納得したように頷いた。

「いや、紅茶だ。しかも、おそろしく不味い」

味を思い出したように、大佐は顔をしかめた。アルの予測は外れてしまった。

「とても飲めたものではなかったので、淹れてくれた者には悪かったが、見つからないように捨てていたところだった」

その先に自分がいたわけかと、アルは理解した。けれど。

「紅茶が嫌いなんですか?」

ねばるように、アルは問いを繰り返した。見上げる視線の先で、大佐は布巾を持っていない方の手を顎にあてた。「外れだ」と、大佐はクイズでも出題しているかのように言って、口の端を上げた。

「むしろ大好きだな。ミルクと砂糖をたっぷり入れたのが一番だ。コーヒーは苦くて不味くて好きではないのでね、家にも執務室にも置いていない」

「ご自分で入れるんですか?」

「むろん、わたしの淹れた紅茶は絶品の味わいだぞ、アルフォンス君」

自慢げに胸をはって、太陽を背にした顔がやわらかく笑った。兄やそれ以外の人たちによく見せる、不敵な感じではなく、まるで。

「そうだな、君が身体を取り戻したら、お祝いにご馳走しよう。焔の錬金術師特製の、ミルクと砂糖たっぷりのロイヤル・ミルクティーを」

「鋼のには内緒でな」と、付け足して、大佐は口の端を上げた。この場にいない年若い錬金術師をからかうときに見せる表情で。

「あれは、君のこととなると手に負えんからな」

大佐にお茶をご馳走になるのに、どうして兄が手におえなくなるのか、アルはよく理解できなかったが。

身体を取り戻せた時に、と。

そんな約束をしてもらえるのがなんだか嬉しくて、アルは「はい」と素直に頷いた。それに、兄には内緒の約束を持つのも、いいかもしれないと思った。兄さんには秘密なのだと思うと、くすぐったいような楽しい気分がした。


大佐の入れてくれるミルク・ティーはどんな味がするんだろう。
母さんが入れてくれるみたいに、甘くてあったかくて、おいしいかな。


共犯者の笑みを目に浮かべて、「では、約束を」と言い、大佐は思い出したように続けた。

「ところで、アルフォンス君の仲立ちの印はどこにあるのかね?」

何気ない問いに、アルは一瞬、返答を迷った。魂を鎧へ定着させる印の場所は、不用意に人に教えてしまっていいものではなかった。大佐は兄弟たちによくしてくれる、文句と悪口ばかり言う兄もそれは理解していた。

けれど、大佐がいつまでも兄や自分たちの味方であるとは限らず、万が一、敵対した時には、印の場所を知られていることが兄の枷にはならないか、と。

そこまで考えて、アルはその仮定が無意味であることに気づいた。

アルを壊そうとするならば、目の前で返事を待つこの人は、印の場所など知らずともそれができるのだ。

高熱の焔で、欠片も残さず鋼ごとアルの魂を溶かすことが、笑みを浮かべて見下ろす男には可能だった。

「背中の……、首の付け根の少し下です」

アルは、壁から背を浮かせて指先で首の後ろを指し示した。わかった、というような顔で頷いて、大佐はアルの肩に手をかけ、ひょいと背中を覗き込んだ。

「では、焔の銘と君の魂に約束しよう。アルフォンス・エルリック」

そう言った唇が、アルの背中にふれた。始めからそこにあることを知っていたように、兄の印した小さな円の裏側に、誓いのキスを。

「今日のことも、鋼のには内密にな」

笑みを含んだ声を低く鋼の肌に震わせて、大佐はひらりとアルから離れた。振り返りもせずに大佐の去って行く反対側から、「アルフォンス!」と名前を呼ぶ声が聞こえてきた。

アルは、走りよってくる兄を見た。怒ったように眉を寄せて、頬を上気させている。なんだろう。なんで兄さんは怒ってるんだろう。

「今の、大佐だろ」

問い詰めるような口調に「うん」と答えながら、アルは、もう存在しない心臓がドキドキするような感じを覚えた。兄さんには内緒。内緒の約束だもの。

「なにし……、なに、話してたんだ」

きつい口調と、見下ろしてくる兄の釣りあがった目に、アルは分の悪さを感じて立ち上がった。勢いよく顔ごと視線を上げるはめになって、兄の顔が不機嫌そうにゆがんだ。

「別に、なにも。いい天気だねって、そーゆう話」

あからさまに誤魔化す答えで、アルは空を見上げた。まだ太陽は空高く輝いている。散歩したいな、とアルは思った。兄さんと一緒に、公園を散歩したい。せっかく、いいお天気なんだから。

答えるつもりのない弟の意思表示を正確に理解した兄は、苦虫を百匹まとめて噛み潰したような渋面を、制服の後姿が消えた方へと向けていた。

「ねえ、兄さん」

ふと思い出して、アルは歩き出しながら傍らに視線を落とした。兄はしかめっ面のままだったが、ちゃんとアルの隣に並んで、歩いていた。「なんだよ」と不機嫌な声が、それでも律儀に返事をする。そんな兄の態度に、嬉しいなんて。

どうしてそんな風に思うのかな。

「兄さんは、僕が美味しくない紅茶を入れて出したら、飲んでくれる?」

「は?」

「それとも、見つからないように、捨てちゃう?」

大佐は捨ててしまうんだって。

それも、優しさかもしれないと、アルは思った。もし、アルが美味しくない紅茶を入れてしまって、それを兄が我慢して飲んでくれたら、嬉しいけど、きっと悲しくなるだろう。美味しくないものを飲ませたかったわけじゃないから、きっと、不味いと言ってくれればよかったのにと思うだろう。

「まあ、捨てはしないかな。不味くても、飲めるもんなら飲むし」

本当の答えの代わりの言葉を、探して、繋げて、兄はそう答えた。見下ろした先で、兄の頬の辺りが赤くなっていた。まだ怒っているのかな。それとも。

















それとも。


















「なあ、大佐となに話してたんだ」

司令部をずいぶん離れてから、またそんな風に繰り返し訊ねてきた兄に、アルはなんだか嬉しいような不思議な気持ちがして、少しだけ笑った。「別に、天気のこととかそれぐらいだよ」と、そう答えて。



友達や、家族に見せるみたいに笑った大佐の顔が、兄に似ていると思って見とれてしまったことはなんとなく黙っていた。




























04.2.2

大佐には無責任に兄をあおってもらいたいです。大佐といても兄のことばかり考えている弟。やさしいひと2(アイロイ)につづく。